岡山ゆかりの著名人

岡山県ゆかりの有名人・著名人など、ジャンルを問わずにご紹介。(※50音順)



あ行


青木 雄二(あおき ゆうじ)

漫画家。京都府出身。
岡山県立津山工業高校卒業。
久米南町役場の職員として勤めたこともあるが、3ヶ月程度で退職。
その直後、大阪へ出てさまざまな職を転々とし、44歳で漫画家デビュー。
本人いわく「岡山の人間は薄情だ」との事。

2003年9月5日逝去。享年58。

代表作は
「ナニワ金融道」(講談社)
「カバチタレ!」(監修・同社)
など。
その他、エッセイなどの著作が多い。



石井 十次(いしい じゅうじ)

日本初の孤児院創立者。宮崎県出身。

宮崎で小学校教師として教鞭を執っていたが、キリスト教信者で、医師の荻原百々平の勧めにより
明治15年、医師を目指し岡山へと移住。
その4年後、邑久郡上阿知村の診療所で医師の実習中、一人の男の子をキリスト教信者の未亡人から
預かったのをきっかけに孤児院を創立した。

医学を学びつつ孤児達の世話を続けるも、その両立は難しく、どちらかの道を選択しなければ
ならなくなった石井は
「医者になる者はたくさんいる。しかし、貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、
 残念だが私をおいて誰一人といない。」
と言い、6年間学んだ医学書に自ら火を放ち、孤児救済の道を選んだ。

1887年(明治20年)、後の岡山孤児院となる孤児教育会を創立。
支援者などから寄付を得つつ、子ども達とともに働き、30年間で約3000人もの子ども達を救った。

1910年(明治43年)、石井の理念「鍬鎌主義教育」を実現するため岡山孤児院を故郷宮崎の
茶臼原(ちゃうすばる)への移転に着手し、1912年(大正元年)に移転完了。

1914年(大正3年)、初孫誕生の知らせを受けた日、故郷宮崎で48年の生涯を閉じる。
「児童福祉の父」、「岡山四聖人」と称される。

参考:教育実践のページ「石井十次の生き方」、みやざき ひむか学ネット



稲葉 浩志(いなば こうし)

歌手。津山市出身。
音楽ユニットB'z(ビーズ)のボーカリスト。

「どこの出身?」と聞かれ「津山出身」と応えると
「ああ、稲葉の」と返された津山市民は何人居るだろうか。
津山といえば「稲葉さん」、「稲葉さん」といえば「イナバ化粧品店」。
ここを訪れたファンは数知れず。
稲葉浩志君メモリアルロードマップはどうかと思うが、彼が郷土の誇りであることは間違いない。
津山駅前の観光案内所や津山観光センターで入手可(無料)。
稲葉さんの地元津山への貢献度は高く、98年の台風で大きな被害を出した津山市へ寄付を
寄せてくれたり、出身校の記念時には寄稿をしてくれたり、地元にある美作女子大学(現美作大学)の
文化祭でライブをした事もある。
また彼の出身地という事で津山へ観光訪れる人たちや、美作大学へ入学してくる人たちが
増えた事も忘れてはならない。
津山市市民栄誉賞第1号受賞者。



犬養 毅(いぬかい つよし)
政治家。岡山市出身。
郵便報知新聞の記者を経て、政界へ入る。
明治15年、立憲改進党へ入党し、8年後の第一回衆議院議員選挙で当選。
第1次大隈内閣で文部大臣、第2次山本内閣で文部兼逓信大臣、第1次加藤高明内閣で逓信大臣を
務めた後、引退。
が、地元岡山県民や支持者が引退を許さず、なんとその後も勝手に衆議院議員選挙に立候補させ続けた。
結局、42年間で18回の連続当選を果たす。

昭和6年12月13日、第29代内閣総理大臣に就任。
その翌年の5月15日 日曜日、大日本帝国海軍急進派の青年将校らが総理公邸にいた犬養を襲撃。
元海軍中尉三上卓の凶弾に倒れる。77歳だった。(五・一五事件)
「話せば分かる。」「問答無用、撃て!」のやりとりはあまりにも有名。

岡山市北区川入(庭瀬の辺り)に犬養木堂(ぼくどう)記念館がある。



井上 聡(いのうえ さとし)

吉本興業所属のお笑いコンビ「次長課長」のツッコミ役。
熊本県出身。岡山市で育つ。
相方は河本準一。

アニメやゲームが好きで、中でも特に「ドラゴンボール」が好きらしく
テレビでよくその事を発言していた。
それを見た「ドランボール」の作者・鳥山明が、お礼にと「ドラゴンボール」作中のキャラクター
「ラディッツ」に扮した井上さんをイラストにし、本人にプレゼントした。
その絵は、ブログ「井上と川島の この世はでっかい宝島」で見ることが出来る。



岩本 ナオ(いわもと なお)

漫画家。児島郡灘崎町(現・岡山市)出身。

2004年「flowers」(小学館)に掲載された「その彼女の存在」でデビュー。
作品には、地元の風景などが取り入れられており
「自分が育った土地を舞台にした作品しか描けない」
と、公言しているそうである。
代表作の「雨無村役場産業課兼観光係」では灘崎町役場が、「Yesterday, Yes a day」作中の
家屋は実家がモデルとなっている。

2009年11月7日・8日に灘崎町町民会館で原画展
「漫画で見る灘崎の風景~灘崎町出身の漫画家・岩本ナオ氏の原画~」
が開かれた。原画展では、連載作品のキャラクターが描かれたサイン入りカード(限定15枚)が
無料で配布された。

代表作は
「町でうわさの天狗の子」(小学館)
「雨無村役場産業課兼観光係」(同社)
など。

「このマンガがすごい!2009 オンナ編」で「町でうわさの天狗の子」が5位、
「雨無村役場産業課兼観光係」が6位にランクインしている。

参考:岩本ブログ、岡山市立灘崎町公民館



オダギリジョー

俳優。津山市出身。

デビューは「仮面ライダークウガ」の主役、五代雄介役。
当初、特撮ヒーロー役には大きな抵抗を感じていたが、当時の番組プロデューサーから
「子供番組のイメージを無視した新しい番組を作りたい。一緒に壊そう」
と説得され、オファーを受けたという。
のちに、雑誌「AERA」に掲載されたプロフィールには、何故か『クウガ』の経歴が
載っていなかったため、クウガのことは封印したい過去ではないか、という憶測が流れた。
しかし本人は「(クウガの出演は)消していませんよ。」と発言しており、封印するつもりは
一切ないらしく、また、『クウガ』に対して一定の愛着をもっているようである。

映画・ドラマ出演の他、バラエティ番組への出演、映画監督も務める。
「帰ってきた時効警察」の第八話では主演・監督・脚本を務めた。

お笑い芸人「次長課長」の河本さんとは、小学校の同級生である。




か行


春日井 恵一(かすがい けいいち)

漫画家。岡山県出身。

1985年「少年ジャンプ」で読み切りが掲載される。
その後87~88年、同雑誌で「アカテン教師 梨本小鉄」を連載。
連載終了後も、何度か読み切り作品が掲載される。
代表作は「アカテン教師 梨本小鉄」(集英社)。

ちなみに「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!マサルさん」に、この作品の主人公
「梨本小鉄」をパロディーにした「無し元小銀」というキャラクターが登場する。

参考:アカテン教師 梨本小鉄 データベース



川相 昌弘(かわい まさひろ)

元・プロ野球選手、現・巨人軍ヘッドコーチ。
高梁市出身。(本籍は岡山市南区。)

1982年、巨人軍へドラフト4位で入団。
もともと投手としての入団だったが、同期でドラフト1位入団した斎藤雅樹という
強力なライバルがいたため野手へ転向。強力な守備固め要因として活躍した。
特に名打者・名犠打者としての活躍は有名で、「バント職人」の愛称で親しまれた。

2004年に中日ドラゴンズに籍を移す。
2006年まで現役選手を務め、2007~2010年は選手指導に当たった。
2011年以降は古巣・巨人へと戻り、一軍ヘッドコーチを務めている。




岸本 聖史(きしもと せいし)

漫画家。岡山県勝田郡奈義町出身。
少年ガンガン増刊号掲載「TRIGGER」でデビュー。
2001年、少年ガンガンにて自身の代表作となる「666~サタン~」の連載を開始。
2007年完結。コミックスは全19巻。少年ガンガンの中でも、長期連載となった。

当時のガンガン誌上では、各作品の表紙に記されている作者名の上に、作者の近況などの
コメントが添えられていたが、ある号で「666~サタン~」の表紙に「地元で三木道三に遭遇!」
と書かれていた。 おそらくその数ヶ月前、津山市で行われた「ごんご祭り」に出演していた
三木道三のコンサートを見に来ていたと思われる。



岸本 斉史(きしもと まさし)

漫画家。岡山県勝田郡奈義町出身。
1996年「カラクリ」で週刊少年ジャンプ(集英社)よりデビュー。
1999年に「NARUTO―ナルト―」の連載を開始し、絶大な人気を得る。
その3年後には同作がテレビアニメ化され、テレビ東京より放映される。
現在も週刊少年ジャンプにて連載中。

ちなみに奈義町の電話帳は、ナルト(「NARUTO」の主人公)が表紙になっている。
斉史氏は、上記聖史氏の双子の兄である。



吉備 真備(きびの まきび)

学者・政治家。奈良時代に活躍。
真備町(現・倉敷市)の名の由来になっている。

717年、22歳の時に遣唐留学生として唐へ渡る。
唐では天文学や兵学などの学術を学び、多くの学術書を日本へ持ち帰った。
また、帰国時には九尾の狐が同船していたという逸話もある。
その後、国内では彼の能力が認められ、従四位上にまで昇進。
時の権力争いにより筑前守、肥前守に左遷されるも、751年に遣唐副使として再び唐へ渡る。
この2度目の帰国時には、五度も渡日に失敗していた鑑真を連れ帰っている。
この後も真備は、政治の世界で大宰少弐、従三位、中納言、大納言と昇進し、右大臣にまで出世した。
771年、光仁天皇の時代のときに辞職。
775年没。

学者がここまでの出世を果たしたのは、真備の他には菅原道真のみである。

※出身地について。
真備の父は吉備郡真備町(現・倉敷市)出身、母は大和国(奈良県)の出身です。
真備の出身地は真備町とも矢掛町とも言われていますが、母の出身である大和地方(平城京)である
という説が有力なようです。

参考:吉備真備の勉強部屋



胡桃 ちの(くるみ ちの)

漫画家。津山市出身。
作品は4コマ漫画が主。
主な作品は「なにわOL奮戦記」(竹書房)、「大阪愛のたたき売り」(同社)、
「バール横丁奇譚」(同社)など。

「バール横丁奇譚」は津山市にある「バール横町」がモチーフとなっており、主人公達が通う学校も
作者の出身校がモデルになっている。

下ネタ系作品は「さおしか然」、「みさき知乃」などの名義で描いている。

主な作品は「ピーチク パーチク」(双葉社)、「ホームメイド・メイド」(ぶんか社)(以上さおしか然名義)他、
「い・け・な・い!瑠璃ちゃん」(松文館)、「イケイケOL」(一水社)、(以上みさき知乃名義)など。



玄田 哲章(げんだ てっしょう)

声優。岡山市出身。
声優業以前は、同じく声優である野沢那智主宰の劇団に入団しており、舞台俳優として活躍していた。
野沢の紹介がきっかけで、声優業へと進む。
アニメ、洋画の吹き替えに多く出演する、ベテラン声優である。
なお、アーノルド・シュワルツェネッガーの吹き替え全般は彼が担当している。

主な出演作品は「ドカベン」(岩鬼正美)、「Dr.スランプアラレちゃん」(スッパマン) 、
「クレヨンしんちゃん」(アクション仮面)、「シティーハンター」(海坊主)などのアニメの他、
「ランボー」、「ロッキー」のシルベスター・スタローンや、「トランスフォーマー」コンボイ役などの
洋画吹き替えも、数多くつとめている。



河本 準一(こうもと じゅんいち)

吉本興業所属のお笑いコンビ「次長課長」のボケ役。
愛知県出身。その後、津山市、岡山市へと転居した。
本人は岡山県出身としている。
相方は井上聡。

フジテレビ系バラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」の1コーナー
「細かすぎて伝わらないものまね選手権」で「ジャッキー・チェンの映画に出てくる定食屋の
店員のモノマネ」と題し、「お前に食わせるタンメンはねぇ!」のネタを披露。
これをきっかけに、飛躍的に知名度を上げる。

その翌年「Matthew's Best Hit TV」(テレビ朝日)のコーナー「なまり亭」に出演した際、
電話で岡山の実家のお姉さんと会話。
その時のお姉さんの個性的なキャラクターが受けたのか、そのまた翌年同番組で、岡山市にある
実家とご家族が、生中継で全国放送された。

また、「人志松本のすべらない話」でも家族ネタをたびたび披露している。
津山市にいた頃、小学校では俳優のオダギリジョーと同じクラスだった。



さ行


桜乃 彩音(さくらの あやね)

宝塚歌劇団、桜組の娘役。津山市出身。
中学生の頃、宝塚歌劇を観覧して以来、宝塚は彼女の憧れであった。
その後津山市内の公立高校に入学するが、夢をあきらめられず中退。
2000年、宝塚音楽学校へ入学する。
2002年に宝塚歌劇団へ入団し、「プラハの春」で初舞台を踏む。
翌年「二都物語」のヒロイン、ルーシー役に抜擢される。
2006年には「Appartment Cinema」で、アンナ役を演じ、花組の娘役トップに就任した。
2009年11月25日に、翌2010年5月に退団することを発表した。

参考:産経新聞 ENAK「花組娘役トップ 桜乃彩音に聞く」



志穂美 悦子(しほみ えつこ)

元・女優。西大寺市(現・岡山市)出身。
主に映画、ドラマに出演。

日本を代表するアクション女優で、JJサニー千葉が主宰する「JAC」(Japan Action Club)に
入団していた。
2008年、テレビ朝日放送の「最強女優伝説!!~第33回ホリプロスカウトキャラバン~」番組内での
水道橋博士の証言によると、吉井川(川幅330m部分)を泳いで渡ったという逸話もあるらしい。

1987年、歌手の長渕剛と結婚し芸能界を引退。

主な出演映画作品は、「女必殺五段拳」シリーズ(東映)、「若い貴族たち 13階段のマキ 」(同)
「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(松竹)、他多数。
ドラマでは、「キカイダー01」(テレビ朝日)、「噂の刑事トミーとマツ」(TBS)、「姿三四郎」(日本テレビ)
など多数。



重松 清(しげまつ きよし)

作家。久米郡久米町(現・津山市)出身。
角川書店勤務を経て、作家となる。
主な著作は「ビタミンF」(新潮社)、「ナイフ」(同社)、「日曜日の夕刊」(毎日新聞社)など多数。

田村章名義で、ドラマや映画などのノベライズも多く手がける。
「世にも奇妙な物語」(太田出版)、「101回目のプロポーズ」(同社)、「僕らに愛を!」(フジテレビ出版)
など。



水道橋 博士(すいどうばし はかせ)

芸人。倉敷市出身。
1986年にビートたけしに弟子入りし、翌年、玉袋 筋太郎とお笑いコンビ「浅草キッド」を結成する。

芸名は、「鉄腕アトム」に登場する「お茶の水博士」がベースとなっている。
眼鏡をかけると、漫画に出てくる博士のような風貌である事と、水道橋博士が中退した明治大学の
最寄り駅が御茶ノ水駅であり、師匠のビートたけしが「ひとつ手前でいいや」と、そのひとつ手前の
駅の水道橋駅からとった事が由来になっている。

オールナイトニッポン(ニッポン放送)、浅草橋ヤング洋品店(テレビ東京)、タモリ倶楽部(テレビ朝日)、
熱血!平成教育学院(フジテレビ)など、多くの番組に出演している。

また、小学生時代に「自転車の乗り方コンテスト」の岡山県代表として全国大会に出場した事があるらしい。


た行


田嶋 陽子(たじま ようこ)

英文学者。浅口郡鴨方町(現・浅口市)出身。
静岡県沼津市育ち。

メディアへの初出は、NHK教育テレビの英会話番組の司会であった。
1990年「笑っていいとも!」(フジテレビ)の出演とレギュラー化をきっかけに、知名度を上げる。
その後、「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)や「たかじんのそこまで言って委員会」
(よみうりテレビ)などの討論番組へフェミニスト論者として、数多く出演する。
94年には「見ーてーるーだーけー」のフレーズが印象的なニッセンのCMにも出演した。




な行



中西 圭三(なかにし けいぞう)

シンガーソングライター。児島郡灘崎町(現・岡山市)出身。
代表作は
「Woman」
「Choo Choo TRAIN」
他多数。
郷ひろみやEXILE、安室奈美恵など、多くのアーティストに
楽曲を提供している。

香川の銘菓「かまど」のCM曲を手がけたことは有名。



中原 杏(なかはら あん)

漫画家。岡山県出身。
小学館発行の少女漫画雑誌「ちゃおデラックス」より
2000年「スイートレッスン」でデビュー。
現在も「ちゃお」で執筆中。

代表作は「きらりん☆レボリューション」(小学館)など。




は行



人見 絹枝(ひとみ きぬえ)

陸上選手。岡山市出身。

岡山高等女学校在学中にはテニス選手として活躍していたが、大正12年、岡山県女子体育大会で
走り幅跳びの女子日本記録を出し、それをきっかけに陸上競技の世界に入る。
以後、やり投げや50m走で活躍し、三段跳びでは世界記録を出すなどした。

大正15年、大阪毎日新聞社へ入社。
その4ヵ月後に第2回万国女子オリンピック大会へ唯一の日本人として出場し、個人優勝を果たした。

昭和3年、初めて女子の陸上が採用された、アムステルダムオリンピックに出場。
このとき、日本から出場した女子選手は、人見ただ一人だった。
人見は100m走に全てをかけ、予選を1着で通過するが、惜しくも準決勝で敗退した。
その翌日の7月30日、未だ出場経験のない800m走への出場を決意。
その予選には32人が出場し、人見は、決勝進出が決まった9名中、8位の成績で予選を通過した。
8月2日、人見は100m走で大きく体力を消耗したにもかかわらず800m決勝で見事2位を勝ち取り、
銀メダルをつかんだ。
日本人女性初のオリンピックメダリストの誕生であった。
優勝したドイツのリナ・ラトケとは、わずか0.98秒差のゴールだった。

しかし、当時の日本人たちから人見は
「女が太ももを出して走るなどはしたない」
「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」
といった誹謗中傷を受けた。それに対し人見は、
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける しかし私の後から生まれてくる
 若い選手や日本女子競技会には 指一つ触れさせない」
と、女子陸上競技に関する記事で述べたという。

昭和5年の国際女子オリンピック大会には、人見をはじめ6名の代表選手の出場が決まった。
ただし出場には1人3000円(現在の金額で約80万円)の費用が必要で、人見は選手として
遠征する傍ら、選手達の大会出場のための費用を工面したり、寄付金を募るなどして6選手の出場を
実現させた。

しかし、大会で選手達は好記録を出したものの、前大会に比べ成績が芳しくなかったため、
日本人からの目は冷ややかなものであった。これに選手達は大いに傷ついた。
更に人見は大会後も遠征が続き、心身共に大きな負担となった。
しかし彼女は会社を殆ど休むことなく出社し、寄付のお礼にも駆け回った。

昭和6年、肋膜炎で大阪の病院に入院。その後肺炎を併発し、3年前の800m決勝と同じ日の
8月2日、乾酪性肺炎により逝去した。
24歳だった。

プラハには、人見の功績をたたえ石碑がたてられた。
石碑には、以下のように刻まれている。

「人見絹枝 1930年8月2日 大阪にて死去
愛の心をもって世界を輝かせた女性に 感謝の念を捧ぐ
チェコスロバキア体育協会」

また後世に残した人見の業績は大きく、現在では一般的になっている
・選手に専属コーチを付ける
・年間を通したトレーニングをする
・クラウチングスタート時にスタート台を付ける
・高校野球入場時にプラカードを持って行進する
・競技に勝利したときは校歌を斉唱する
といった事を提唱し、実現させた。

参考:岡山市立福浜小学校(人見絹枝の出身校。)
   その時歴史が動いた




平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう)

法律家、政治家。津山市出身。

1867年生まれ。
1872年に上京し、箕作阮甫の娘婿・箕作秋坪のひらいた洋学塾「三叉学舎」で学ぶ。
帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を主席で卒業し、法曹界で栄進していった。

1939年1月、第35代内閣総理大臣に就任。
当時、日本とドイツを敵視していたコミンテルン(共産主義インターナショナル)に脅威を感じていた日独は、防共協定である「日独防共協定」(1936年)を締結していたにもかかわらず、この年の8月、ドイツとソ連が「独ソ不可侵条約」を締結した。これは日本だけでなく、世界中に衝撃を与えた。
これをきっかけに、平沼は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ…」の言葉を残し、総辞職した。

太平洋戦争終結後、東京裁判にてA級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年に病気により仮釈放。
その直後に死去し、戦犯としての罪は消滅した。
1978年、靖国神社で「昭和時代の殉難者」として合祀された。

津山市にある平沼の別邸は国の登録文化財に指定されており、平沼氏の書などが展示されている。
別邸は津山市に寄付され、現在「知新館」という名称でコミュニティの場として市民に利用されている。(無料)


参考
・津山瓦版
・海国防衛ジャーナル

ま行


Mr.ボールド(みすたー ぼーるど)

芸人。津山市出身。

「ボールド」というのは英語で「ハゲ」の意味で、その名の通り氏はスキンヘッドであった。
口ひげに黒のタキシード、という装いがお決まりのスタイルで、一輪車にまたがり様々な芸を
披露する「コミックサイクル」や、ラバーカップ(トイレ掃除のスッポン)などの吸盤がついたものを
観客に投げさせ自身の頭にくっつける、といった芸、そして巧みな話術で多くの観客を爆笑させた。

一輪車芸の中でも、氏が口にフォークをくわえ、リンゴを観客に投げさせ突き刺す、という芸は
氏の代表的な芸だった。
「8時だョ!全員集合」の前座として出演していた際、加藤茶と志村けんが同番組内で、このスタイルに
よく似た「ヒゲダンス」という芸をやりはじめ、世間に大うけした。
しかし、「ヒゲダンス」が世間に知れ渡ると、Mr.ボールド氏自身の芸が「盗用だ」などと不当な批判や
罵倒を受けた。

不遇な時代が続き、命を危ぶまれる事故にも遭遇したが、奇跡的に回復。
フリーの芸人として活動していたが、その後「吉本興業」へ入る。
舞台に出演すれば必ず笑いを取り、海外の舞台でも大好評だった。

ある日の舞台での演技中、観客から黒いあざがあることを指摘され病院で診察を受けたところ、
手遅れの悪性黒色腫と診断された。
手術で腫瘍を切除し、退院したが、体調は悪化。
2003年10月27日死去。61歳だった。

病気に苦しむ姿を芸人仲間には見せず、一輪車にまたがれなくなるまで舞台に上がりつづけたという。



箕作 阮甫(みつくり げんぽ)

江戸時代(寛政~文久)に活躍した蘭学者。藩士。
津山市出身。

津山市西新町に生まれる。
父と二人の兄を亡くしたため、12歳で家督を継ぐ事となる。
津山藩の永田敬蔵、小島廣厚らに儒学を学び、のち京都へ出、竹中文輔のもとで3年間医術を学ぶ。
その後津山へ戻り、本町で開業するが1823年、藩主の供で江戸へ行き、蘭学習得のため
津山藩医・宇田川玄真の門に入る。

1831年、江戸詰のため、家族で江戸に移り住む。

1839年、蛮社の獄で自害した小関三英の後任として天文方蕃書和解御用に任ぜられ、翻訳員となる。
1853年のペリー来航の際には翻訳官、米大統領国書の翻訳を務めた。
その1ヵ月半後にはロシア使節プチャーチンが来航。
翌年、再び来航したプチャーチンとの交渉のため川路聖謨、筒井政憲らに伴い交渉団の一員として
長崎へ赴き、活躍した。

その後、藩書調所(洋学の研究所。東京大学の前身。)の教授に任ぜられ、日本の大学教授第一号となる。
1863年、没。行年65歳。

阮甫による著書は、医学をはじめ西洋学・語学・地理学・兵学など多岐のジャンルに及ぶ。
また、日本初の医学雑誌「泰西名医彙講」を出版した。

参考:kotobankコトバンク
   津山工業高等専門学校



光吉 智加枝(みつよし ちかえ)

苫田郡鏡野町出身。

昭和49年、岡山県立津山高等学校に入学。
自転車での通学途中、津山市二宮の交差点で安全確認を怠ったダンプに轢かれ、夭折した。
昭和50年2月26日。15歳という若さだった。

事故の日の夕方、両親が、彼女の勉強机から「自分を育ててくれた」という鉛筆や文具類、そして
彼女が小学校4年生から亡くなる前々日まで綴っていた日記を発見した。
その日記には、こう記してあった。

 7月9日
あたし今 いいこと
思いついた 期末テストのべん
きょうしながら
あのねー この日記が
ね おわったらなー
やねうらにほうりこむん
そうして何十年もたってこの
家をこわすときがきて この日
記をだれか見つける。
そして よんで 「だめの子日
記」という本にする。
いい想像だーナ
(小学館「だめの子日記」より抜粋。改行原文ママ。)

これを読んだ両親は、彼女の遺志を継ぎ、「だめの子日記」というタイトルで私家本として発刊。
それをあらため、昭和51年、小学館が「だめの子日記」を出版した。

日記には日々の出来頃や、嬉しかったこと、悲しかったこと、特に思い悩む心、葛藤、自分の
人生に対する想いや決意が率直に書かれており、その悩みながらも成長する心を表した純粋な文章が、
読む者の心を打った。

出版後、中学校道徳の副読本として採用され、また、平成2年、国語の教科書(中学2年・三省堂)にも
掲載された。

参考:「だめの子日記」光吉智加枝・小学館(絶版)、津山瓦版、つーる・ど・おかやま



水戸岡 鋭治(みとおか えいじ)

工業デザイナー。岡山市出身。
株式会社ドーンデザイン研究所代表取締役。

主に、バスや電車のデザインを手がけ、グッドデザイン賞やブルーリボン賞などを数多く受賞している。

主な作品は
JR九州の特急「ソニック」、九州新幹線「つばめ」など多数。
岡山では路面電車「MOMO」、「たま電車」
両備フェリー「おりんぴあどりーむ」など。



MEGUMI(めぐみ)

女優。元グラビアアイドル。倉敷市出身。

当初は歌手を目指していたが、2001年グラビアデビュー。
その後、バラエティ番組やドラマなどに数多く出演。
地元メディアにおいても岡山県庁、岡山県警のCMや、かの「ばちこい!」(瀬戸内海放送)
にも出演していた。

参考:MEGUMI OFFICIAL SITE



森永 あい(もりなが あい)

漫画家。岡山県出身。

同人作家であったが、1993年コメディーDX(角川書店)より「11年目の女神」でプロデビュー。

代表作は「山田太郎ものがたり」(全15巻)。
1995年~2000年に月刊Asukaの連載作品だったが、
2007年、TBSでのテレビドラマ化の余波を受けて連載が再開された。

その他の代表作は 「ユンカース・カム・ヒア」(木根尚登・作 角川書店)、
「僕と彼女の×××(ペケ3つ)」(マッグガーデン)など。



や行


八代 駿(やしろ しゅん)

声優。津山市出身。

声優のほか、テレビ・ラジオドラマ、映画などの俳優もつとめた。
主な出演作品は、「トムとジェリー」のトム、「いなかっぺ大将」の西 一(にし はじめ)など。
また、ライダーシリーズでは数多くの怪人役をこなした。
数あるキャラクターの中でも、特にアニメ「くまのプーさん」のプー役として
あの特徴的な声で専属声優をつとめ、またディズニーランド内でのプーの声も担当し活躍していた。

2003年に「くまのプーさん 完全保存版II ピグレット・ムービー」がアメリカ・カナダで
公開された約3か月後、脳梗塞で逝去。
20年以上務めたプー役での作品が遺作となった。



八名 信夫(やな のぶお)

俳優。岡山市出身。
3~5歳頃まで、津山市で過ごす。

大学中退後、東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)の投手として入団したが、
試合中に負傷し、引退。
その後、球団の親会社である東映の専属俳優となった。

当初は役に恵まれず、収入も乏しかったため、自ら悪役を志願。
それが好転し、以後数多くの映画やドラマで悪役として多く出演するようになり、
悪役俳優のイメージが定着した。今までで、もう1200回以上殺されたという。

1983年、悪役を演じる俳優たちで構成された「悪役商会」を結成した。

主な出演作は
網走番地外シリーズ(東映)、仁義なき戦いシリーズ(同)などの任侠映画や、「大江戸捜査網」、
「西部警察」などのドラマにも出演。
また、「ドラえもん のび太の宇宙小戦争」で声優(ギルモア将軍役)も務めた。

キューサイ青汁のCMで有名な
「まずい!もう一杯!」
の台詞は、八名自身が実際に青汁を飲んだ際に言ったらしく、それがそのままCMに採用された。

参考:Akuyaku Shokai Home Page
   おおさか報知(悪役俳優・八名信夫さん、高校時代はモテモテ球児…岡山市)



吉行 あぐり(よしゆき あぐり)

美容師。御津郡御津町(現・岡山市)出身。
1997年、NHK朝の連続テレビ「あぐり」のモデルとなった美容師である。

18歳のとき、美容院界の先駆者である山野千枝子に弟子入りし、東京・丸ノ内美容院で
3年間の修行を経る。
昭和4年、千代田区市ヶ谷に「山ノ手美容院」を開業・独立した。
技術の高さが評判となり、昭和6年には銀座に2号店、昭和11年に岡山に3号店を出すまでになった。

当時の女性達にとって憧れの美容師で、雑誌などにも取り上げられるほか、
レポーターを務めたり、ラジオにも出演するなどの「モダンガール」であった。
しかしその後、夫の遺した多額の借金の返済、戦争による店舗の強制解体、空襲による
自宅消失など、様々な不幸が襲った。

昭和24年再婚。
苦労の末、昭和27年、東京丸の内に「吉行あぐり美容室」を開業させた。
しかし、昭和40年代から美容師達の価値観の変化や、若い弟子達とのコミュニケーションに悩み、
昭和54年、72歳のときに美容室を閉店。
しばらくは日本中を旅するが、昭和56年、再び「吉行あぐり美容室」を開店。
顧客は常連だった40人に限り、あぐり一人で店を経営した。
平成17年閉店。

日本最高齢の美容師であったが、2015年1月5日、肺炎のため逝去した。
107歳だった。

参考:YOUTUBE 知ってるつもり?!「吉行あぐり」



ら行


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わ行


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  • 「志穂美悦子」の項目を修正しました。ご報告ありがとうございましたm(_ _)m 修正部分:「33m」→「330m」 --- ジュリあーの (2013/11/09 11:48:36)
  • こんにちは。明治屋の磯野計や元総理大臣の平沼騏一郎なども津山出身です。あと全日空の美土路 昌一氏も --- yazy (2014/12/17 10:57:30)
    • >yazyさん 情報ありがとうございます。本日、情報をいただいた「平沼騏一郎」を追加いたしました。他の2名は今のところ追加予定はないのですが、メモとして残しておきます。ありがとうございました。 --- 管理人 (2014/12/20 09:54:25)
  • 「吉行あぐり」の項目を修正しました。 --- 管理人 (2015/01/14 19:29:41)

  • 最終更新:2015-01-14 19:28:43

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